スポーツは「良い子」を育てるか 永井洋一②

続きです。


「勝敗」に対する大人の姿勢

子供は単純に強いものが好きです。子供は未熟ですから、スポーツから勝敗の結果以外に何かを学ぶという価値観はなかなか持てません。勝ち負けにこだわる気持ちは、大人より強くあります。だからこそ子供に対して「スポーツをするのは勝つためばかりではないのだ」と諭すのが大人の役目のはずです。ところが、本来、教育的な態度をとるべきはずの親のほうが勝敗やチームの優劣にこだわり、我が子が「勝てるチームの一員」であるためにエゴを丸出しにしてしまうという現状があります。こういう環境では、少年たちはスポーツをすることで勝敗を超えた「何か」を学ぶのではなく、目先の勝利のための「計算高さ」ばかりを身に付けていくことになります。果たしてそれが、親が子供に「スポーツを通じて学んで欲しい」と望んだことだったのでしょうか。


勝利の代償として失われていくもの
―少年時代の勝利の方程式は「選別と機械化」―

少年スポーツで勝利をえるにはある原則があって、その効力は本人の努力や指導者の工夫では覆せないほど強力です。
原則の1つとは、運動能力の高い子供の数が多いチームが勝つ、ということです。ここでいう運動能力とは、一般に「運動神経」などといわれているものです。足の速い子、力の強い子、体育の得意な子、そういう子がいかにチームに多くいるかで、少年スポーツの戦力はほぼ決まってしまいます。前項で紹介したような、遺伝的に優れた運動能力を持つ子が何人いるかで、勝負の大勢は戦う前にほぼ決まってしまうのです。
小学生では、同じ学区の顔見知りの子供たちでチームを作ることが普通の形です。学区はたいてい、世帯数や人口などによって区切られますから、1つの学区にいる子供の数は基本的には平均化されています。ですから、その中にいる運動能力の高い子供の割合も、ほぼ平均化されるわけです。しかし、年度によってはある学区に運動能力の優れた子が多く、別の学区では少ないということもあります。そうした自然の摂理の中で、年度によって強いチームができたり、できなかったりするわけです。少年スポーツとは本来、そんな流れの中で、勝敗にあくせくせず、「人間万事塞翁が馬」として顔見知りの仲間たちと気楽に楽しまれるべきものです。
2つ目の原則とは、子供自身があまり考えずに、大人の言う通りに動くよう訓練されたチームが勝つ、ということです。スポーツの楽しみの1つは、プレーの場面場面で判断し、自分の責任において次の行動を決定していく部分にあります。自分が思うようにプレーできるからこそ、それがたとえ上手くいかなくても、スポーツは楽しいのです。ところが子供は未熟ですから、プレーのバリエーションは限られていますし、大人から見れば判断ミスをします。そこで、あまり子供に判断をさせず、機械のようにあらかじめ決まった動きを徹底させ、無駄を省いて試合を進めていくほうが、少年スポーツでは勝利を得るには効率的ということになります。
機械的な動きを運動能力の高い子供たちに実行させると、恐ろしく統制のとれた、合理的なプレーをするチームが出来上がります。大人のスポーツでは、よく考えずに機械的な動きをする選手はむしろ愚かな選手であり、よく考え、工夫する賢い選手に、最終的には負けてしまうものです。しかしこれは、技術も体力も十分な力が備わり、それを駆使できるようになってからの話です。全ての部分で未熟な少年期では、大人の世界ではむしろ「愚か」と判断されることを機械的に徹底したほうが、勝利には近いのです。
もう1つ、少年スポーツで勝つための原則があります。それは能力の高い子供だけを選別して訓練し、能力の低い子供はできるだけ排除していくことです。
例えばサッカーのJリーグの下部組織は、能力の高い子供のみを指導するエリート養成の機関ですから、セレクションを開催し、はじめから一定の能力に達している子供だけが選抜され、入部が許可されます。こうした方法で才能のある素材をエリート教育していくことも、日本のレベルアップには必要かもしれません。しかし、そうしたエリート養成を受けられるのは、ごく一部のだけ子供です。それ以外の、多くの「普通」の子供たちは、地域の少年スポーツクラブで楽しむことになります。言い換えれば、地域のスポーツクラブの使命はエリート養成にあるのではなく、「普通」の子供たちに対する地道な指導であるはずです。


子供は調教されたサーカスの熊ではない

能力の劣る子供がやめざるを得ないような環境をつくり、残された能力の高い子供に勝つための手法を徹底して教え込むチームづくりをすれば、小学生のうちは大抵の試合に勝つことができます。しかし、自分の判断をほとんど介さず訓練された通りに動くことでいくら勝利を重ねても、それはスポーツにおける勝利とはいえないと思います。スポーツは、人が頭脳と肉体を駆使して競い合うものです。種目に関わらず、プレー中には、瞬間瞬間に無数の方法が用意されています。その中から何を選び、それを、いつ、どこで、どれだけ、どのように使っていくかを、プレーする本人が選択、決断していくのです。瞬間的な試行錯誤が、誰にも束縛せれず自分自身の中で行われるからこそ、人はスポーツをすることで充実感を得るのです。芸術に興味がある人が絵筆や楽器で自己表現するように、スポーツは思考と肉体で自己表現する手段なのです。
しかし、子供のプレーの多くが監督・コーチなど大人に指示されたものであるなら、それを忠実に実行することは自己表現とは呼べません。子供は大人の身代わりになってフィールドに立ち、大人の考えたことを再現する操り人形にすぎないのです。私は、このように子供が自らの判断を持たず、大人の言うなりにプレーすることを、「調教」と呼んでいます。「調教」という言葉で思い出すのはサーカスの熊です。熊は客を楽しませようと自分なりに工夫したり、よりよい演技をしようという向上心を持つことはありません。熊は毎日、強制的に調教された動きを反復することしかできません。
繰り返し反復して訓練されたことを表現するという意味では、調教された動物の動きとスポーツのプレーは表面上は似ています。しかし、決定的な違いは、スポーツではプレーする本人が自ら考え、工夫するということです。それは、人間にしかできないことです。だからこそ、人間だけが、体の動きを「スポーツ」という形にして楽しむことができるのです。言い換えるなら、子供に動物を調教するようにスポーツをさせるなら、それはとても非人間的な行為であるということもできます。実際、大人に言われるがままにプレーすることは、子供にとって楽しいどころか、むしろ苦痛であるはずです。しかし、その苦痛をまぎらわせる「麻薬」があります。それが「勝利」なのです。
どんなにプレーそのものがつまらなくても、あるいは自分の思いどうりにプレーできなくても、最終的にチームが勝利し、自分が勝利者の一員になるという瞬間があると、苦痛は忘れてしまいます。特に少年時代は、まだスポーツプレーの奥深さを知るには経験不足で、自分が工夫できた喜びや、技術、戦術を駆使できた喜びといった、高度な充実感を得ることはできません。そのため、少年たちの喜びの比重は、最も身近で簡単な「勝利」に傾くことになります。自分やチームのプレーの内容を省みるよりも、「勝つか負けるか」という、最も単純な部分に関心が集まるのです。子供の中では、勝つことこそが全てなのです。勝利するのであれば、あえて「つまらない」ことにも耐えていけるようになります。
こうして、ただの勝利という麻薬に溺れて「調教」されることを受け入れていくと、やがてその子供はスポーツで最も重要な「自律」の能力、つまり自ら考え工夫し、自分をコントロールしていく能力を弱めてしまうことになります。指示に対しては忠実に遂行できるものの、自分の判断を迫られるような局面になると応用力が発揮できない人間になってしまいます。集団のなかの「駒」として機能することはできても、「個」としての存在感が示せない人間になってしまいます。それは、長じて成熟した大人のスポーツを行うようになったときに、最も役に立たない選手として認識される姿なのです。
子供にプレーを判断させながらチームをつくるよりも「調教」した方が、少年スポーツでは間違いなく勝利には近いでしょう。また、子供自身も勝利することで不満の多くを昇華させてしまいます。ですから、少年時代という短い期間だけを切り取るなら、たとえ「調教」されるような環境であっても、チームが勝ってさえいれば楽しく満足したスポーツライフと感じられるかもしれません。しかし、そうやって「調教」された子供は、人間として、スポーツマンとして、最も大切なものを置き忘れて育ってしまうのです。


※もう一つ続きます。